2012年02月24日

世界は光の嵐

ある方からの、メッセージから、わたしにとっての『どん底から見た世界』を

ただ、ありのままに。

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ふと、若い頃、朝が来るのが嫌で、夜まで嫌いになったことがあった、と思いだした。


生命の誕生、息吹、壮大なハーモニー。

朝は神秘的で、どこかしら希望に満ちていて、活気が漲っている。

それが、朝というもんだ、と今は思うけれど。


そこ7~8年前まで、朝が、大っ嫌いだった。

朝の前には、夜がある。

夜には、必然的に、朝を感じさせるものがある。

だから、夜も嫌いだった。   

夜は、朝の準備時間。


日が落ちて、何時間もすると、夜の帳が下りてくる。

そのなんとも言えない、焦燥感。

否応なく、朝を感じさせる暗闇が、わたしの世界を包む。


わたしにとって、生きるとは、闘いだった。

社会との調和、融合、他者との壁をせっせと造り上げ、外に見える用の『わたし』を

必死で守りながら。 勝手に、闘っていた。相手が何かも分からずに。

攻防戦だ。 はっきり言って、徒労である。それでも、必死だった。


朝が来るのが、憎かった。


どん底にいる時、世界は暗く淀んでいるように、見える人もいる。


わたしは、その時、世界が眩しくて、正視できなかった。

世界の明るさ、輝き、あらゆるものが幸福に満ちて見えた。

真っ白な、無数のフラッシュを浴びているように、世界が輝いて見えた。


羨望や嫉妬ではなく、自分と世界のコントラストが、はっきりと見えた。

心で感じたのではない、目で、この目で見たんだ。


どん底って、暗いイメージだけど、違うんだぁ・・・その時、初めて知った。


その時見た、無数のフラッシュの嵐。

それと、朝が、似ていると思う。



光に押しつぶされることに、必死で抵抗していた。そんな毎日。


あのまま押しつぶされてしまえばよかった、と今は思う。



明日が来るのが、とても辛かった。

だからと言って、生きることを、諦めるのも怖かった。



憂鬱なまま、わたしの一生は、この光の洪水に埋もれながら、世界を直視することなく

終わっていくんだろう、と思っていた。


今でも、きっとわたしは何ものにもなれず、くだらないまま、終わるんだろう、と思っている。



それでも。

どん底から見た世界は、とてもとても光り輝いていて、本当に幸福に満ち溢れていたんだ。

あれが、真の世界なんだと思う。


くだらないものがいっぱい集まって、あんな無数の光を放っている。


実は、くだらなさこそが、この世界なんじゃないか、って思うくらいに。



どん底から見た世界が忘れられない。

子どもの頃の、あの世界とも似ている。


もう一度、あの世界を見るまでは、死ねないな。


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Yさん、これがわたしの『どん底でみる世界』です。

わたしのどん底は、けっこう明るいもの、だと自分では思うんだけど。

その世界は素晴らしく、本当に目が開けられないくらい、眩しかったけれど

わたしの心は、死にかけていたからなぁ。


心が、生き生きとしている状態で、あの世界が見られたら、死んでもいいかもしれない。

いや、いつかきっと、あの世界をもう一度感じてやるんだ。

そうじゃなきゃ、悔いが残る。

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