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Posted by チェスト at

2012年02月03日

好き勝手

さて、最近良い子ちゃんのふりをしていたので、ここらで思いのたけを思いっきり。


ひとつ前の記事で、Facebookの話をしましたが。


わたしは、世間で言う『負け組』に、率先してなりたいと思っています。

勝ち組・負け組、とはよく言ったもので、人生の・・・なんて頭につけると、負け組は

生きている価値なんかない、そう言われているのと同じような捉えられ方をしています。  続きを読む

2011年12月26日

矛盾


人間は矛盾ばかりだ。

だから、この現実世界は矛盾ばかりだ。



花壇に植えている花を、子どもがいたずらに摘むと

『かわいそうでしょ。やめなさい』

という大人が

生きている花を切り取って売っている花屋さんで花を買う。



子どもが気持ち悪いからといたずらに蟻をつぶすと

『かわいそうでしょ。やめなさい』

という大人が

キッチンに現れたゴキブリを殺虫剤で殺す。


なぜ花壇の花はダメで、花屋さんの花は良いのか。

なぜ蟻はダメで、ゴキブリはいいのか。


それを説明するのは大変な作業だろう。


そんなのは常識とモラルをもってすれば、大人になれば分かることだ。

と、大人は言う。


じゃあ、その線の引き方は決まっているのか?

ここまでは良くて、こっから先が悪いなんて誰が決めているんだ?


蟻とゴキブリの差は何だ?

花壇と花屋の差は何だ?


人が作った花壇の可愛らしい花は摘んではいけない。

人が心豊かにするために、殺すために育てた花は摘んでもいい。

そういうことじゃないだろう。


分からなくなる。

何が良くて何がいけないことなのか。


子どもはそんな凝り固まった大人の感性を、簡単に裏切る。

でも自分も子どもの頃はそうだったんだ。

それを、忘れているだけだ。


どうか子どもをもつ親の方々。

自分の都合だけで、子どもに余計なことを詰め込まないでほしい。

自分が子供の頃、何を感じ、大人に対してどう思っていたかを思い出してほしい。

自分が親にされた教育を子どもに伝えるのは、やめにしないか。

親にどう教えられたかではなく、自分がどう思ったかを子どもに伝えてくれないか。


親は、子どもの前では絶対的存在なんだ。

子どもはもう本能で親を愛するんだ。

どんな酷い事をされても庇うし、どんな惨い言葉を吐き捨てられても、やっぱり親を愛している。


子どもも、一人の人間だ。

自分の思い通りになんてならない。

期待をせず、静かに見守ってほしい。


道を逸れても大丈夫。

慌てるな、騒ぐな。


そして、道を逸れないような子どもにしようなんて馬鹿なこと、考えるのはやめた方がいい。

道を逸れてしまった時、親がどう尻を拭うかで子どもの考えは変わる。


誰だって過ちは犯すし、嘘を吐いたことのない人間なんかいない。

間違うことだってあるし、見逃すことだってある。

それを、絶対にするなと子どもに言うのは、矛盾してないか?


いいんだ。

子どもには子どもの信念がある。

もしかしたら、そこらへんの大人より強く純粋に信念を貫いているのかもしれない。


大人の何が偉いんだ?

子どもの純粋な感性には、大人たちは誰も太刀打ちできない。



大人が道を作ってやらなくても、子どもは自分で道を見つけるんだ。

大人が道を作ろうとするから、子どもは自分を否定されたと感じるんだ。

まっすぐに、親の言うことだけ聞いて、いまなにも不自由なく幸せだという人間はいるのか?



子どもは勝手に成長していく。

親はそれを傍観し、危険を避けてやるのではなく、危険が及んだ時にどう対処するかを

考えた方が子のためだ。


子どもとして見るから、子どもは子どものままなのだ。

一人の人間として、尊重しながら接していけばいい。


言うことを聞かないから、無理やり聞かせようとするのではなく。

ほらね、そうしたらこうなるんだよ。分かった?

と、一度経験させてみろ。

大人は何度でも同じ過ちを犯すが、子どもはそうではないと感じるはずだ。

感受性では、大人の方が負けなのだから。


心で感じたことを、そのまま行動にするのが子どもだ。

嘘の仮面を脱ぎ捨てられない大人より、子どもの方がよっぽど信用できる。



ガキは嫌いだが、そういう面で、子どもは好きだ。


親のみなさん。

矛盾しているということは、真実ではないということです。

子どもに嘘を教える前に、もっとやるべきことあるんじゃないでしょうか。

子どもが子どもなりの答えを出した時に、それをゆっくり聞いてあげてください。

それは間違いだと否定するのではなく、聞いてあげてください。

そうなんだ、お母さんはこう思うけど、どう?

聞いてあげてください。


きっと、はっとするような言葉を、子どもはおしえてくれます。  

2011年12月18日

戦争という名の自己主張


わたしは、世界を見る眼すら少数派なのかもしれない。


戦争体験者である祖父が、自ら特攻隊に志願した話を聞いた。


特攻隊と言っても、知覧から飛び立つあれではない。

奄美大島出身の祖父は、沖縄戦の直前に島から島へと武器や食料を運ぶ

小さな手漕ぎボートの乗組員(と言っても、当時それは一人で行う任務だったらしい)に

志願したという。


もう生きているのが嫌になったそうだ。

物資を運んでいる最中に、敵に見つかり殺されてしまいたいと思っていた、と語った。

そんな本音は隠して志願したのだが、上官に『お前はもっと出世できる』と退けられたらしい。


こんな話を聞いたら、他の人はどう思ってなんと言うのだろう。


わたしは祖父に

『戦争嫌いだった?』

と質問した。

『ああ、嫌いだった。早く終わってしまえと思っていた。毎日死にたいと思っていた』

という言葉をくれた。


さらにわたしは質問した。

『なんで自分で死ななかったの?』

(みんな多分こんなこと聞かないんだろうな)


祖父は

『死ねなかった。沖縄に上陸されて、すぐそこまで敵が来ていると思うと
 もうすぐ故郷がやられると思うと、せめて最後まで故郷を守ろうと思った。
 だが、やっぱり戦争が終わらないのなら、人生が終わってほしいと思った。
 だから特攻隊(祖父はその任務を特攻隊と言っていた)に志願したのに』

と、吐き出すような言葉をくれた。


『そうか。じいちゃん戦争嫌いだったのか。でも今でも天皇陛下好きだよね』

『そうだ。天皇陛下は素晴らしい人だ。お前たちの好きなスナップ(SMAP)のようなものだ』


と、見当はずれもいいところで会話は進むのだが。


天皇陛下とSMAPは違うだろう。

でも、分かりやすく例えようとしたんだろう。



祖父は健在だ。

痴呆防止にいろんな所へ行くし、いろんなことをする。

腰も全く曲がっておらず、わたしよりも早く歩く。


まったく、すごい人だ。



祖母は大阪の紡績工場に居たらしい。

終戦後、船で鹿児島に着き、奄美までの船を待つ間、

北埠頭に並んでいる石倉の中で寝泊りしていたという。


わたしは祖母にも質問した。

『ばあちゃん、その倉の中暑かった?』

『いいや、涼しかったよ。島に比べればどこも涼しいが』

『そうか。じゃあ帰って来てからじいちゃんと結婚したの?』

『そうだよ。ばあちゃんたちは昔の人にすれば結婚が遅かったんだよ』

『そうなんだ。』

『あんたの父ちゃんは、まだ大島がアメリカ領だった時に生まれたんだよ』

『そうなの?』

『アメリカからいろんな配給があってね、缶詰のアスバラ(アスパラガスのことらしい)が
 最初は何か分からんでね、牛に食べさせてたが』

『ぎゃははははは』



悲惨さが、ない。

わたしには戦争というものが、知識や想像では分かるけど

実際に体験していないので、感覚として分からない。


震災もそう。

想像は出来るし、どれほどのことかはとてもよく理解しているのに、

実感がない。感覚として分からないんだ。


だから、戦争も震災も、わたしには何も言う権利などない。

良い・悪い・どうすべきでなく・どうすべきか・・・

いろんなことが『外野』で議論され、何かと言えば『不謹慎』・・・


なぜひとつの価値観が正解で、他は皆間違いなのか。


不謹慎の幅が広がりすぎて、何も言えなくなっている気がする。

不謹慎?くそくらえ。


わたしのじいちゃんが死にたい死にたいと毎日を過ごしていたことに

『え、なんで殺されるの待ってたの?なんで自殺できなかったの?』

その問いすら、世間一般では『不謹慎』なのだろう。


何度も言うが、わたしには実感がない。体感がない。

想像は出来る。こうだったのかな?という自分なりの答えなら幾通りも想像できる。

でも、正解はじいちゃんの中にしかない。

じいちゃんがいきなり自分の戦争体験を話してきたのだ。

もうあと10年後、じいちゃんはこの世に居るか分からない。

今聞いとかなきゃ、全てが消去される。なかったことになる。

本音が聞きたい。真実が知りたい。

そして、じいちゃんは残したい。わたしに伝えたい。


聞くしかないでしょう。

なんで自殺って方法をとらなかったのか、聞くしかないでしょう。


そしてわたしは、その真実をこんな方法で世に伝える術しか知らない。