2011年12月18日

戦争という名の自己主張


わたしは、世界を見る眼すら少数派なのかもしれない。


戦争体験者である祖父が、自ら特攻隊に志願した話を聞いた。


特攻隊と言っても、知覧から飛び立つあれではない。

奄美大島出身の祖父は、沖縄戦の直前に島から島へと武器や食料を運ぶ

小さな手漕ぎボートの乗組員(と言っても、当時それは一人で行う任務だったらしい)に

志願したという。


もう生きているのが嫌になったそうだ。

物資を運んでいる最中に、敵に見つかり殺されてしまいたいと思っていた、と語った。

そんな本音は隠して志願したのだが、上官に『お前はもっと出世できる』と退けられたらしい。


こんな話を聞いたら、他の人はどう思ってなんと言うのだろう。


わたしは祖父に

『戦争嫌いだった?』

と質問した。

『ああ、嫌いだった。早く終わってしまえと思っていた。毎日死にたいと思っていた』

という言葉をくれた。


さらにわたしは質問した。

『なんで自分で死ななかったの?』

(みんな多分こんなこと聞かないんだろうな)


祖父は

『死ねなかった。沖縄に上陸されて、すぐそこまで敵が来ていると思うと
 もうすぐ故郷がやられると思うと、せめて最後まで故郷を守ろうと思った。
 だが、やっぱり戦争が終わらないのなら、人生が終わってほしいと思った。
 だから特攻隊(祖父はその任務を特攻隊と言っていた)に志願したのに』

と、吐き出すような言葉をくれた。


『そうか。じいちゃん戦争嫌いだったのか。でも今でも天皇陛下好きだよね』

『そうだ。天皇陛下は素晴らしい人だ。お前たちの好きなスナップ(SMAP)のようなものだ』


と、見当はずれもいいところで会話は進むのだが。


天皇陛下とSMAPは違うだろう。

でも、分かりやすく例えようとしたんだろう。



祖父は健在だ。

痴呆防止にいろんな所へ行くし、いろんなことをする。

腰も全く曲がっておらず、わたしよりも早く歩く。


まったく、すごい人だ。



祖母は大阪の紡績工場に居たらしい。

終戦後、船で鹿児島に着き、奄美までの船を待つ間、

北埠頭に並んでいる石倉の中で寝泊りしていたという。


わたしは祖母にも質問した。

『ばあちゃん、その倉の中暑かった?』

『いいや、涼しかったよ。島に比べればどこも涼しいが』

『そうか。じゃあ帰って来てからじいちゃんと結婚したの?』

『そうだよ。ばあちゃんたちは昔の人にすれば結婚が遅かったんだよ』

『そうなんだ。』

『あんたの父ちゃんは、まだ大島がアメリカ領だった時に生まれたんだよ』

『そうなの?』

『アメリカからいろんな配給があってね、缶詰のアスバラ(アスパラガスのことらしい)が
 最初は何か分からんでね、牛に食べさせてたが』

『ぎゃははははは』



悲惨さが、ない。

わたしには戦争というものが、知識や想像では分かるけど

実際に体験していないので、感覚として分からない。


震災もそう。

想像は出来るし、どれほどのことかはとてもよく理解しているのに、

実感がない。感覚として分からないんだ。


だから、戦争も震災も、わたしには何も言う権利などない。

良い・悪い・どうすべきでなく・どうすべきか・・・

いろんなことが『外野』で議論され、何かと言えば『不謹慎』・・・


なぜひとつの価値観が正解で、他は皆間違いなのか。


不謹慎の幅が広がりすぎて、何も言えなくなっている気がする。

不謹慎?くそくらえ。


わたしのじいちゃんが死にたい死にたいと毎日を過ごしていたことに

『え、なんで殺されるの待ってたの?なんで自殺できなかったの?』

その問いすら、世間一般では『不謹慎』なのだろう。


何度も言うが、わたしには実感がない。体感がない。

想像は出来る。こうだったのかな?という自分なりの答えなら幾通りも想像できる。

でも、正解はじいちゃんの中にしかない。

じいちゃんがいきなり自分の戦争体験を話してきたのだ。

もうあと10年後、じいちゃんはこの世に居るか分からない。

今聞いとかなきゃ、全てが消去される。なかったことになる。

本音が聞きたい。真実が知りたい。

そして、じいちゃんは残したい。わたしに伝えたい。


聞くしかないでしょう。

なんで自殺って方法をとらなかったのか、聞くしかないでしょう。


そしてわたしは、その真実をこんな方法で世に伝える術しか知らない。




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