2012年02月10日

行動力と理性と、惰性


今だ!という時に、分かっていても動けない時がある。


今は違う!と分かっているのに、動き出してしまう時がある。



どっちも、わたしの心が決めている。



分かっている、頭では、痛いほど分かっているのに、心がそれを受け入れられず

結果、身体が動かない。言葉が出ない。


今動いたら、きっと良くなるものも駄目になる。分かってるのに、身体が、勝手に動き出す。

ほら、良くない結果、待っていたでしょ?



それらを、理性という頭で、全て管理できたら。

きっとわたしは、とてもすごい人間になれるだろうな。



それが、できないから、苦しんだり悲しんだり、笑ったり喜んだり、その繰り返し。


そこから、何を学ぶか、なんだけどね。


学びに変えるには、結論を、自分の中での結論、つまり納得しないといけないんだ。

いろんな方法があるけれど。


何かの拍子で、言葉や音楽や、些細なことで『あ、そうか』と、学んだり。


苦しくて暗くて、どん底の毎日を送っている時に、何かに救われて、学んだり。


でも、それらは全部、納得する瞬間だと思うんだ。


あ、そうか、そういうことか。言葉で説明できない何かを感じる瞬間。


よく『気づき』だとかいう言葉で言われているけど。


空っぽだった場所に何かを詰め込むのではなく。


あるはずだった考えが、根底から覆されるような、納得。


見えていなかったものが、ある日突然見えてしまって、無理やり納得させられる瞬間。


でも、それを受け入れ難い、とは感じない。


すんなりと、パズルのピースがそこにあって当たり前かのように、はめ込まれる瞬間。


わたしの場合、それらは、経験からしか生まれない。


ふと、ある瞬間に、開けるかんじは何度か経験したけど、経験からくるものの方が多い。


だから、逆境が好きだし、どうにもならない状況の中へ、飛び込んで行ってしまうんだろう。


決してドエムではないのだが・・・。エムなのか・・・?



自分の経験値を上げる方法を、それくらいしか知らないからだ。


そんな、荒療治とも呼べることを、惰性で続けている。







Posted by hys at 19:02│Comments(2)
この記事へのコメント
こんばんは。
心と身体は、全く別々のものなのか、それともやっぱりどこかで繋がっているものなのか、不思議なものです。
心で分かっていても動けない時もあるし、心は「平気」だと思っていても体に不調が出る時もあるし。

私は、終わった後から「あれって、こういう意味だったの?」と気付く、思い知らされることがあります。
それは、自分の外界から与えられる「新しい何か」から学ぶことじゃなくて、経験して自分の中に最初からあったものだったり、今まで意図して見ないようにしていたことだったり、……そんな風に思います。
だから、「あるはずだった考えが、根底から覆されるような、納得」 という言葉に、何だか納得でした。自分の言葉で上手く言えないのですが、そういう開ける感じ・何かを感じる瞬間というのは分かります。


確かに、荒治療な感じがしますね。
エム…なのかしら。だったら私もエムになりそうです(笑)
Posted by masato at 2012年02月11日 00:32
>masatoさま

コメントありがとうございます。

ほんと、言葉で上手く説明できない何か、ありますよね。
わたしが思うに、その何か、っていうのは、とてもとても感覚的で、心の反応で、頭が理解できない何か、だと思うんですね。
だから、思いを上手く捉えられなくて、言葉にできないのでは?と。

それを上手く捉えて、言葉にしている書物もあるけれど、きっと、筆者の真意は筆者にしか分からないことなのでは?と。
言葉にすると、途端にイメージとかけ離れたりすること、ありますもんね。

これからも、荒療治、がんばります。笑
Posted by hyshys at 2012年02月11日 10:30
 
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    コメント(2)